弊事務所の歴史
19世紀半ばドイツは多数の小国家に分裂して崩壊の危機にあり、知的財産所有権 に関する制度もまだ確立されていませんでした。しかし1871年のドイツ帝国の 誕生によりドイツの知的財産所有権に関する制度への道が開かれ、1887年には 初の統一ドイツ特許法が『帝国特許法』という名で発効されました。
この頃より既に知的財産所有権に関する手続きは多くの技術的及び専門的法律知識を必要としていました。企業から委託を受けこのような手続きを行う専門家は当時『特許出願の代理人』呼ばれていました。エンジニアのAlexander Specht(写真1)もそのうちの一人でした。彼はまもなく制定される法律に先立ち1876年12月ハンブルグに弊事務所を設立しました。1878年11月4日彼の初の特許出願を帝国特許局に行いました。Charles Horatio Waterous jr.(ブラントフォード/カナダ)からの委託で『蒸気機関車の新改造』という題目で申請番号は20626番でした。
ドイツの知的財産所有権に関しての動きが盛んになるにつれ弊所の規模も拡張され ていきました。1879年にAlexander SpechtはエンジニアのRudolph Ziese、Johann Petersenを迎え入れ『Specht, Ziese &CO特許、技術事務所』の名のもとに新事務所を ハンブルグの旧魚市場の近くに設立しました。(1880年代の写真より)(3) この事務所は合名会社としてハンブルグの地方裁判所に商業登録されました。( 商業登録簿18334番 )(4)19世紀末にはエンジニアのJulius Stuckenbergが 弊所に加わりまた。
1900年に公布された弁理士に関する法律により特許出願代理人がドイツで初め て『弁理士』という名称で公認される様になりました。(写真5)弊所で特許出願 代理の手続きをしていた者もこの時より自らを弁理士と称する様になりました。( 商業登録簿32907番、バインダー)
第一次世界大戦直前エンジニアのRudolph Spechtが弊所のパートナーとなり1918年から1930年に亡くなるまで弊所の運営にあたり、その後エンジニアのJohannes Fritze、Karl Stoepelに事務所運営が引き継がれました。(商業登録簿HRA13627)(8)Karl Stoepelは当時帝国特許局が置かれていたベルリンにて職務を遂行していた為、この時点より弊所は全国規模のとなりました。(バインダー)(9)この当時ハンブルグ事務所はスピターラ通り、後にリーリエン通りに置かれていました。
第二次世界大戦が弊所にも大きな傷跡を残して行きました。Karl Stoepelは空曝を受 け弊所を去り、戦後彼の故郷のランダウ(ファルツ州)に自らの事務所を開いたと 言われています。Johannes Fritzeは職務を継続することは出来たものの数回にわたり 事務所を移転せねばなりませんでした。戦後には化学博士のWerner Kochが弊社のパ ートナーになりました。彼は以前ベルリンで弁理士をしていましたが戦争により自 らの事務所を閉鎖に追い込まれました(バインダー)(10)。
1949年にはハンブルグ事務所はシモンフォンウトレヒト通りに移転されます。この頃ドイツ特許局がミュンヘンに置かれるという事が明らかになり、Werner Kochがミュンヘンのコルベルガー通りに事務所を開設すべく準備にとりかかります。しかし1950年にJohannes Fritzeの急死によりこのミュンヘン事務所は間もなく閉鎖される事になります。
今日のミュンヘン事務所はWerner Kochのもとで弁理士資格取得を目指し資格取得後に弊所のパートナーとなったRichard Glawe工学博士により1952年に開設されました。1964年にはエンジニアのKlaus Delfsがハンブルグの事務所に(バインダー)(11)、1968年にはWalter Moll物理学博士がミュンヘン事務所にそれぞれ加わり弊所の規模はさらに拡大されました。
Werner Koch亡き後 "GLAWE DELFS MOLL"に弊所名が変わり、今日に至るまで各 技術専門分野に精通した弁理士、弁護士をパートナーに迎え入れ事務所の発展に努 めております。そして工業所有権の保護に関しての多様なご要望にお答えしていま す。
















